1233年(天福元年)、親鸞聖人が京都上賀茂と下鴨の間にある出雲路に一宇を草創しました。1338年(暦応元年)、第五世 善幸上人が山元の庄(現鯖江市神明町)に移転されました。その後、第十一世 善秀上人に跡を継ぐ法嗣がいなかったことから、柳原大納言より法嗣を迎え、第十二世 善照上人となりました。1596年(慶長元年)、豊臣秀吉から除地朱印を受けていた現在地、味真野地区(現越前市)に移転しました。門前町一帯を五分市(ごぶいち)と呼ぶため、「五分市本山」と言われています。
1233年(天福元年)、親鸞聖人が京都上賀茂と下鴨の間にある出雲路に一宇を草創しました。1338年(暦応元年)、第五世 善幸上人が山元の庄(現鯖江市神明町)に移転されました。その後、第十一世 善秀上人に跡を継ぐ法嗣がいなかったことから、柳原大納言より法嗣を迎え、第十二世 善照上人となりました。1596年(慶長元年)、豊臣秀吉から除地朱印を受けていた現在地、味真野地区(現越前市)に移転しました。門前町一帯を五分市(ごぶいち)と呼ぶため、「五分市本山」と言われています。
1207年(承元元年)、親鸞聖人が越後へ配流された際、越前上野ケ原の豪族、波多野景之の別荘に滞在し、本願念仏の教えを説かれたことに起源します。この時より、景之は法名を空然とし、この地を聞法の場としました。如覚上人の時代にこの地が狭くなり、現在地(現鯖江市本町)に移転しました。道性・如覚両上人の時代に隆盛を極め、加賀・能登・越後・美濃へと教えが広まり、第七代 秀応上人の時代に、後花園天皇より誠照寺の寺号を賜りました。その後、一向一揆の際に一時衰微しましたが、第十五代 秀誠上人により再興されました。
1207年(承元元年)、親鸞聖人が越後へ配流された際、下向途中、山元の庄(現鯖江市神明町)で教えを説かれたのが起源と言われています。親鸞聖人は60歳の時に京に戻りましたが、山元の同口衆が越前再下向を懇願。それに対し、子の善鸞上人に「我に代りて山元の庄に下向せよ」と命じ、自身の御影と真筆の名号などを託されました。1263年(弘長3年)に親鸞聖人が亡くなると、孫の浄如が親鸞聖人の分骨を奉持して山元の庄に帰住、教えを広めました。その後、門人の道性が山元の地に證誠寺を創建したとされています。1475年(文明7年)、天台宗長泉寺からの焼き討ちに合ったことで現在地(鯖江市横越町)に移転し、寺基を定めました。
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